心触れ合う「おかやまのちょっといい話」をご紹介します。
ほんわかと暖かな人の織り成す物語で、気持ちの安らぐひとときをお楽しみください。
※偶数月の第1月曜日更新
私の義母は軽い認知症でした。同居をしていたのですが、平成23年8月には白内障が進み、両目が見えなくなりました。かかりつけ医の紹介で近くの眼科へ行きましたが、そちらでは認知症の人の手術は出来ないとのことで、他の病院を紹介していただき、両目とも手術をして視力も戻りました。その12月には腸閉塞で緊急手術もしましたが、こちらも回復し、デイケアに通いながら自宅で元気に過ごしていました。
平成24年1月13日(月)、私は朝6時頃からお寺参りに出かけ午後6時帰宅しました。杖を洗ってお床に置いていると、隣の部屋から「ウーウー」という義母の声がします。
主人に聞くと「朝から様子がおかしい」と言うのです。
母はベッドの中で動けなくなっていました。
すぐかかりつけの先生に電話を入れると看護師さんが先生に代わってくれました。今の母の様子を話すと「今日はいっぱいなので入院できません」と言われました。
私は「来て一度診て頂きたい」とお願いしました所「今日は患者さんが少ないので、あと2人診療したら行きます」とおっしゃってくださいました。
午後7時半ごろ来られて点滴して頂きました。
翌日も先生はお休みなのに、自家用車で午後2時頃来て診てくださいました。
オシメを替える際に便がつくので、先生に診て頂くと「私ではいけない」という事で、すぐに携帯で看護師さんを呼んでくださいました。看護師さんを待つ間「当分の間自宅で看たいです」と話すと「昔ながらの看取りでいいのですね」と言ってくださいました。「はい」と言いました。主人も主人の弟も協力してくれました。
月曜日、先生と看護師さんは運転手つきの車でケアマネージャーさんも自宅に来て下さり、床ずれ防止のエアーマットがあることを教えて下さり手配して頂きました。訪問看護師さんが来て清拭毎日してくださって母の顔はぴかぴかでした。
最初看護師さんがジュースを飲ませると飲みません。私が実母の介護に行ったとき「ごっくんして」と言うと実母も飲んでいたので、義母にも同じようにしたら、リンゴジュースを飲んだので、見ていた看護師さんはビックリした様でした。
それもだんだんと難しくなりました。唇が乾いたらハチミツを塗るといいと教えて頂き、ハチミツを付けると、最初は舌でなめていましたが、それも段々と舐めることができなくなってしまいました。
とうとう最後は呼吸が3分おき、4分おきになり、息子である夫に手を取られ静かに旅立ちました。今では珍しく、自宅で夫と家族で看取ることができました。あと3日で満91歳の大往生でした。私も義母の様に病院ではなく自宅で最期を迎えたいと思います。
政府でも自宅で最期まで過ごすのを目指していますが近頃は90%近くの人が病院で亡くなると聞きます。我が家の母の場合、かかりつけ医がたまたま在宅訪問医であったことがすべて理想的にいった例ですが、先日テレビで在宅医の例を見ましたが、レントゲン(自宅でレントゲンはできないので)以外は全て医師が病院で診るのと同じように点滴、心電図、酸素摂取量まで測るものを持参して自宅で診てもらえます。訪問看護師さんが1日1回は来て下さいますし、本当は自宅にいたいのに病院に入っている方も多い昨今です。もっと多くの方が病院、病院とすぐ入院せず自宅で家族に見守られながら過ごせる方法もあることを知っていただけたらと思いちょっといい話に応募してみました。
暖かな日差しの下、むくむく伸びる新芽の緑が眩しく映ります。山菜摘みが我が家の春恒例行事。山菜の自生場所、美味しい調理法も、摘み方も全て母親に教わりました。私も今でこそ娘に教えていますが、最初の頃は、摘み方一つでも色々と怒られました。山菜は来年も採れるように、芽を残したり、他の人が摘んだ後は摘まないようにしたり、必要以上に採り過ぎたりしないようにしないといけません。永く山と付き合うためにはまさに自然と会話をし、分け合って自然の恵みを頂く心構えが大切と教えられました。
今でこそ、山菜は季節を楽しむ食材ですが、昔は貴重な食料でした。
終戦直後、私がまだ8歳ごろのことです。(恥ずかしながら、おかげさまで今年で喜寿を迎えます) 当時は本当に貧しい時代でした。食べ物も充分に無く、皆お腹を空かしており、治安も不安定な頃でした。母親と岡山まで鉄道で出たものの、帰りは理由は忘れましたが鉄道が動かなくて、やむなく4時間も歩いて帰る羽目になりました。あの頃は、便も少なくすし詰めで屋根に乗る人もいました。今では考えられませんね。
買い物を終えて出たのが夕方。母がただ歩くのももったいないと言い、歩きながら道端に生えている山菜を摘みながら帰りました。段々と山菜で籠が一杯になり、3時間ほど歩いた頃でした。日も暮れてあたりは明かりもありませんから、ほとんど暗がりの中を幼心に心細く母と、歩きすぎて足が痛い言いながら歩いていました。母親が不意に「振り返っちゃダメよ」といいました。どうしたのかと思いましたが、すぐに誰かが後ろを付いて来ていることに気がつきました。それからどれぐらい歩いたでしょう?まだ付いてきます。母は買い物したものを持っていましたし、私は引ったくりか何かだとどうしようと不安でしようがありません。
すると後ろから「すみません、少し別けてもらえませんか?」と声がしました。
母と振返ると、赤ん坊を背負った綺麗な若い女の人でした。聞けば食べ物が無く、母の摘んだ山菜が見え、分けて貰えないかと言うことでした。声を掛けたものか、どうしようかと悩みながら付いて来た言うのです。今想えば、本当に困っていたのでしょう。
母は快く、「困ったときはお互い様」と、我が家も食べ物に困っていたのに山菜を全部あげてしまいました。その方は涙を流して喜んでいました。都会から疎開してきたそうで、山菜の料理の仕方も母が一緒に教えてあげました。その事が縁でその方とはしばらく交流があり、時々家で食事もした記憶があります。今では、食べることに困ることはありませんし、本当に幸せな時代になりました。娘と一緒に実家の裏山へ山菜摘みに出かけると毎年懐かしく思い出されます。
タラの芽に、ウド・カタクリ・ギョウジャニンニク、自然の恵みを毎年美味しくいただけることに感謝、感謝です。